花金の朝に、こんにちは。
タイタニック見学ツアーの潜水艇が消息不明というニュースを聞いて、戦時中の人間魚雷「回天」の黒木大尉の事故を思い出して胸が苦しくなります(Googleで調べてみてください)。局長です。
─── 本日で、俺の最愛のポメラニアン真熊が逝って4ヶ月になる。
4回目の月命日である。
これから詳しく綴るが、「もう4ヶ月」なのか「まだ4ヶ月」なのか、自分の中でどう感じているのかさえ正直よく分からない。
そんな俺の「ペットロス」の症状について、備忘録として綴っておこうと思う。
今現在、ペットロスで苦しんでいる人や、これから近い将来にペットロスに陥る人などに、この記事が何かしらの参考になれば幸いであるが、ならないかな・・・・
天皇誕生日の祝日でもあった 2月23日(木)の朝、15年半もの時間を共にした真熊が、俺の元から旅立ってしまった。
そこからの1週間は、自分が自分でないような感覚だった。
いつ、どのタイミングで悲しみがこみ上げてきたり、涙があふれ出てきたりするのかが分からず、制御もできない状況なのだ。
だが、1週間が過ぎた頃から俺に別の異変が起き始めた。
真熊のことを何も思い出さなくなったのだ、突然に。
喪失感に苦しんだ1週間は、元気な頃の姿が一切浮かんでこず、たった2年程度の通院・闘病期間の弱々しい姿しか思い出せないことに苦しんでいた。
それが1週間が経過した辺りから、もはや元気な頃の姿も、闘病中の姿も、何も思い浮かばなくなったのだ。
「真熊の“最後の戦い”を記録に残す作業」シリーズとして、2月に入ってからの様子を克明に綴っているのは、病院で院長先生と諸々の判断を下すときのために真熊の状況をリアルタイムで細かく記録に残していたので、それを焼き直しているだけ。
そのときの状況も、時間を掛ければ少しずつ思い出てもくるのだが、当時の自分が書いた記録を読んでいるだけでは何も浮かんでこない。
写真を見ても「なんとなく覚えてる」くらいなのだ。
本当に真熊という犬はこの世にいたのか、俺は15年半もの長い時間を犬と暮らしていたのか ── それさえ分からなくなっている。
さらに驚くべきことは、“犬”という存在に何も感じなくなっている自分。
小倅の「バスタイム」に付き合っている時間も、夕方の犬の散歩をしている人たちがたくさん往来するのだが、まったく目が行かない。
小倅が「わんわん!」と言って初めて気が付くが、だからといって「可愛い」とか「微笑ましい」といった思いものなく、「わんわんだね」と言葉を返すくらい。
天然猫の寿喜の点滴で通っている動物病院の待合室で出くわす犬たちにも、何も感じない。
まるで、“犬なんかまったく興味のない猫派のオッサン”のような感覚なのである。
石像猫のにいぼんが逝ったときも近しい症状があった。
思い出せることは、にいぼんが病に伏してから逝くまでのたった2週間の辛そうな姿だけで、元気な頃のシーンは何一つ思い出せない。
死後1年半以上が過ぎた頃から、ようやく少しずつ思い出せるようになり、不意に思い浮かんできたりもするようになったほどだった。
だから、これは脳が反射的に行っている“防衛本能”の一種なのかなと感じている。
俺が傷ついたり、辛い思いをしないよう、記憶に蓋をしているのではないかと。
その一方で、相反する反応もある。
真熊のことを思い出さないくせに、体は以前と同じ行動を取ったりするのだ。
仕事や外出先から帰るのが遅くなったりすると、「あぁこれから散歩か」と面倒くさい感じで考えてしまったり、大雨の日には「今日の散歩どうしよう」と気が重くなったり。
でも、一瞬で「あぁ、もう散歩はないんだ」と我に返る。
先日、ペット用品店にキャットフード類を買いに行ったときも、猫トイレに使用するペットシートを手に取った後は無意識にドッグフードコーナーに行き「アイツ最近はどれ食べてるんだっけなぁ」と考えてしまい、ハッと気付いて驚いた。
真熊の姿や一緒に過ごしたときのシーンには蓋がされているのに、15年半も繰り返してきた行動だけは体が記憶してしまっているらしいのだ。
しかし、俺の周りでペットロスに苦しむ人たちの様子は、全然違う気がする。
彼らは、いつまでも悲しみが癒えず、寂しさや喪失感と無理やり折り合いをつけながら必死に生きている ── といった様子に映る。
一方の俺は、もはや寂しさなど感じることもなく、真熊の存在そのものを記憶から消して、あっけらかんと普通に生活している。
こういった俺のケースは、特殊な例なのだろうか。
それとも、同じようなタイプの人も多数いるのか。
長くなったが、これが4ヶ月経過した俺のペットロスの症状である。
真熊を失った悲しみを感じない代わりに、真熊を思い出せない別の悲しみに直面している。
なかなか思い出してあげられず申し訳ない限りの真熊に哀悼のクリックを
コメント
おっしゃるお心からはかけ離れた力の入った投稿ありがとうございます
失礼を承知で申し上げます
いつか山奥の沢水からこぼれるように、亡きひとの記憶はやって来ますよ
今の局長さんは忙しすぎます
慣れぬ仮住まいに、何より優先しなければならないご家族との生活の維持
初めてのお子さん、お仕事、新しいお住まいへの引越しの算段、新しい生活
新しいお住まいで何気なく落ち着いた瞬間
ふっと天上から降りてくるかもしれません
幸せで幸せで仕方なかった日々は局長さんの中にあります
不躾な物言いですみません
局長さんと同じ感覚かどうかは分かりませんが、その気持ち分かるような気がします。
私の場合はまた下にもワンコが居てるので、今までと行動は変わりませんが、りくとお出掛けした時の記憶とかが出て来ず、亡くなる前の時の光景しか出て来ません。
その光景を思い出しては胸が熱くなり打ち消す自分がいたり…
ペットロスって苦しんで何も出来ず…ってならない私って冷たいのかな?って思う時もあります。
局長さんがおっしゃる防衛本能みたいな、思い出す事が辛く記憶を封印しているのかな?って思ったりしています。
4ヶ月しか経ってないんですよね、もっと経ってるような感覚です。
局長さんの今の状態、苦しいですね。
思い出さないと以前書いてありましたが、それが今も続いている事、他の犬を見ても何も感じない事、そうかと思えばペットフードを買いそうになったり散歩の事を考えたり。
泣いたりはありましたが、私は一切そういう事はなかったです。
亡くなった月曜日に必ずお花を買って飾る、これを繰り返してました。
お花とクッキーが居てくれた事で苦しいロスにはならなかったと思います。
母親にもう良いんじゃないと言われてからお花は記念日だけになりました。
局長さんがいつか自然とまぐちゃんの全てを思い出せる日が来ますように。
私もマリィが亡くなった時、周りからペットロス症候群を心配されましたが、全くなりませんでした。(もちろん、悲しかったですが)
局長さんもそうですが、一生懸命看病したからではないかと思ってます。
また、最後の数日間は覚悟を決めていて、感謝の気持ちで天国に送り出すことができました。
ちなみにマリィは5年経った今も、一度も夢に出てきてくれません。
一度ぐらい、マリィに噛みつかれる夢を見たいな~。
私がコタローとお別れした時は、突然だったので戸惑いがの方が大きく、
涙が出たのは亡くなったその日に出社して、同僚にこっそり「今朝死んじゃった。
今日はもう仕事ができないから午後は休むね」と告げた時と、
その翌日ペット霊園に連れて行って最後のお別れをした時だけでした。
亡くなったことは悲しいのに、これでもう自由なんだ。と解放されたような
気持ちの方が強くて、なんでこんなに冷たいこと考えちゃうんだろうって
ペットロスで苦しむ話を見聞きするたびに思っていました。
局長さんの書いたのを読んで、そういえばあの頃私もコタローを思い出せなくなって
いたかもしれない。そしてあっけらかんと普通に生活していたなというのを
思い出しました。
お別れしてから9月で6年になるので、コタローと一緒にいたころのことは
思い出せるようになっていますが、実は顔は忘れていて先日久しぶりに写真を見て
こんなに可愛い顔してたんだと改めて気づきました。
カメラを嫌ったのでいい写真が全然なくて、どこにも飾っていないんです。
初めまして。とてもお名前にぴったりな可愛い子ですね。私も11/30に14年11ヶ月の次男を亡くし1週間が経ちました。
本当に全く私と同じ状況で、昨日の朝からピタッと涙が止まりました。防衛本能というフレーズがまさしくピッタリ当てはまる気がして思わずコメントさせていただきます。
半年前から脳の疾患で発作や麻痺が始まり投薬治療で回復傾向にありました。獣医師さんにお見せするための症状の動画を保存していましたが見返すのが苦しくほとんどを消しました。頑張った証拠消すなんて、とも思ったのですがあの時の焦りや悲しみを思い出したく無いのです。無くなる前日の最後の記録もです。後悔よりも楽しかったことだけを記憶したくて。15歳6ヶ月の上の子も腎臓病の闘病と認知症も始まりおそらく自分自身に余裕がないのもあるのでしょうね。
この上ない愛情を注いだ自覚はありますので、もっと酷いロス症状が出るのかと思ったのですが冷静で、お店なとで笑って話せる自分に驚いておかしいと思っていたのでこちらのサイトを見つけてなんだか安心しました。
長文失礼致しました。
これからも真熊ちゃんを想ってご自愛くださいね。