名 前 | にいな ♂ |
通 称 | 「にいぼん」「石像猫」 |
猫 種 | ロシアンブルーっぽい雑種 |
生没年月日 | 2005年 4月中旬 ~ 2021年 2月 3日(享年16歳) |
性 格 | ●繊細 ●特別扱いされることが好き ●ストレスから“スプレー”を行うことがある ●寿喜や稚葉の節操のない行動に翻弄されることが多い |
特 徴 | ●座ったまま石化したようにピクリとも動かない ●珈琲の匂いが好きだが、実際に飲ませたら渋い顔をした ●雑種の野良猫出身だが、毛並みが高級そうなので「血統のいい高そうな猫」と間違えられることが多い |
好きなこと | ●隣のお婆ちゃん宅に行くこと ●特別扱いしてもらうこと |
嫌いなこと | ●寿喜にちょっかいを出されること ●自分のテリトリーが寿喜に侵されること |
誇れること | ●動物病院ですらピクリとも動かない ●猫なのにボートに乗ったことも海に行ったことある |
特 技 | ●動かないこと ●気配を消すこと ●真熊との取っ組み合いにおける寝技 |
死 因 | 脾臓のリンパ腫(癌) |
■ 家族となった経緯
2005年 4月27日、局長の職場に出入りしている野良猫が産み落とした子猫が、総務課により保護されていた。
ロビーで取引先と打ち合わせをしている最中に、「にゃぁ」というか細い声が何度となく聞こえ、気になるあまり打ち合わせ終了と同時に鳴き声をたどって総務課のカウンターに行くと、そこで小さな箱に入れられていたのがにいなであった。
総務課から里親探しを依頼され、そのままGW休暇に入ってしまったことで、休み中は24時間にいなの世話に追われる。
4/27に出会ったので、仮称として「27=にーなな=にいな」となった。
GW明け初日にはその兄弟たち3匹も見つかり、併せて4匹の里親探しを開始するも、GW中ずっと面倒を見てきたにいなだけは愛着がわいてしまい結局そのまま自分で飼育することとなった。
■ 成長の過程
自身の年齢さえ問題なければにいなを引き取りたかったという隣のお婆ちゃんにも協力してもらい、日中はお婆ちゃん宅に預かってもらう二重生活を送る。
どちらも自分の家のように、双方からの愛情を一身に受けて多少わがままに育つ。
その結果、寿喜が家にやって来てからは抗議のスプレー攻撃を繰り返すようになってしまった。
■ 闘病と死去
2021年1月18日から突如調子を崩し、かかりつけ医にて「腎性貧血」と診断され治療を行うも快方に向かう兆しが見えず。
別の病院でセカンドオピニオンで診てもらうと脾臓にリンパ腫(癌)が見付かる。
その病院に転院し必死の治療を続けるも、13日間の闘病の末、2月3日に永眠。
享年16歳(15歳と9ヶ月)。
【13日間の闘病の時系列】
- 1月18日(月)俺と共に寝室でお昼寝をすると、夜になっても起きてこなかった
午前中までは至っていつもどおり。
お昼寝に付き合わせるだけのつもりだったが、異変のトリガーに。 - 1月19日(火)朝から寝室のベッドで眠りつづけ、朝晩とも何も口にせず
夜にリビングに連れて降りるも、いつの間にか再び自ら寝室へ。
薬だけはかろうじてベッドの上で飲んでくれた。 - 1月20日(水)朝から寝室のベッドで眠りつづけ、朝晩とも何も口にせず
夜にリビングに連れて降りると、洗面台に飛び乗り水を飲み、食卓のイスに飛び乗って眠ったりと、ジャンプするだけの元気は見せてくれたが、再び自ら寝室へ。
- 1月21日(木)朝ごはんを1/4ほどの量だけ食べ、再び寝室のベッドで眠りつづける
夜にリビングに連れて降りると、前夜と同じように食卓のイスにジャンプするも、失敗して落下。
- 1月22日(金)動物病院への駆け込み ⇒ 闘病生活のスタート
まったく回復の兆しが見えないことから、三日間のロスを心の底から後悔しながら、かかりつけの病院へ。
「腎性貧血」の診断を受ける。 - 1月23日(土)フラフラして満足に歩けない状況に
立とうとするとフラフラしてしまい、トイレまでの移動ができず粗相。
食欲もなく、ペースト状の総合栄養食を2~3口しか食べらなかった。 - 1月24日(日)体重が1kg減、症状も一気に悪化
22日(金)以来の通院日で、貧血予防の赤血球造血因子の注射を。
トイレまで歩けず粗相がつづくようになってしまったため、猫用のマナーウェアを着用することに。
- 1月25日(月)
- 1月26日(火)緊急輸血、そして脾臓の出来物がリンパ腫(癌)と判明
血液検査をするも貧血の状態が異常ということで、その場で日帰り入院での緊急輸血を行うことに。
夕方には、前日に見付かった脾臓にある出来物が「リンパ腫」、つまり癌と判明。
癌の詳細が分からないため、副作用の少ない抗がん剤を投与。
帰宅後はフラつきながらも、トイレまで歩いて“アピールちっち”を。
- 1月27日(水)二日連続の輸血により復調の兆し?
前日にも輸血をしたものの依然として貧血状態が激しいため、日帰り入院による二日連続の輸血を行う。
輸血の効果か、帰宅後は食欲が出たらしく総合栄養食を自らお皿から食す。
さらにはトイレまで歩き“アピールちっち”も。 - 1月28日(木)稚葉との最後の抱擁、闘病開始以来の最好調
にいぼんの不調を感じ取って一定の距離を取りながら見守っていた稚葉だが、ついに我慢ができなくなったのか、にいぼんの元へ飛び込んでいった。
稚葉が元気をくれたのか、その後は食欲がわいたようで総合栄養食を食べ、水も大量に飲む。
トイレまで歩き“アピールちっち”と、病に伏してから初めてとなるウンコも。
さらには、石油ファンヒーターの上に乗ることまで。
夕方の通院から帰宅後は、この日二度目の“アピールちっち”。
恐らく、この日が闘病期間中の最好調だった。
- 1月29日(金)前日の好調から打って変わって絶不調に
朝から何も食べないため、やむを得ず「腎臓サポート」の液体リキッドタイプをシリンジで与える。
さらには、水を飲みながら粗相。
また、癌の痛みが強くなり始めたのか、落ち着きなく動き回るように。
この日から急激に弱り始めたので、夜はリビングで一緒に寝ることに。 - 1月30日(土)癌の詳細検査の結果が出る
前日の粗相からニオイがキツくなってしまったので、「水を使わないシャンプー」で洗う。
外部機関によるリンパ腫(癌)の詳細検査の結果が出て、『顆粒リンパ球由来のリンパ腫』と診断される。
翌日の血液検査後に、癌をピンポイントで攻撃できる抗がん剤を投与することに。
病名が分かったことで食欲もわいたのか、総合栄養食を少しだけ食べる。
- 1月31日(日)三日間だけステロイド剤を強めて投与する『勝負の三日間』
改善しない貧血と、新たに発症した黄疸により「この状況下で使える抗がん剤がない」との診断となり、三日間だけ限定でステロイド剤を強めて投与し、状況の打開を図る『勝負の三日間』を実施することに。
病院からの帰宅後、少し眠ってから目を覚ますと、まさかの寿喜のカリカリフードを奪って食べ始めた。
病に伏してから初めてのドライフードだ。
さらには、総合栄養食もガツガツと食べる。
まるで「死ぬ気なんてさらさらない」という、生きる強い意思を見せているかのようだった。 - 2月1日(月)「勝負の三日間」の二日目
前日と打って変わって絶不調となり、朝から何も食べず。
それどころか水さえも上手く飲めないため、シリンジで飲ませることに。 - 2月2日(火)「勝負の三日間」の最終日
朝から絶不調で何も食べてくれないので、「腎臓サポート」の液体リキッドタイプをシリンジで与える。
貧血も黄疸も、改善の兆候は見られず。病院からの帰宅後も、総合栄養食をほんの少しか食べられず。
癌の痛みから、かまくら型ベッド間を激しく動き回るように。
さらには意識の混濁も見られる。
- 2月3日(水)別れのとき
癌の痛みに苦しみながらも、朝を迎えると少しだけ和らいだのか、窓際のお気に入りの場所で陽の光を浴びながら眠りに就いていた。
だが、俺の中では「今日だな」という確信めいたものがあった。這うように俺の元へとやって来たので、膝の上に乗せてあげる。
しかし、すぐに癌の痛みが再発してしまい苦しみ始める。苦しみから意識が朦朧としてきたので、急ぎ“隣のお婆ちゃん”に連絡して、最後のお別れをしてもらうことに。
この日から“臨月”となる身重の嫁女房が定期健診から帰宅。
正直、間に合わないと思っていたが、にいぼんは待っていてくれたのか。18時を回っても、まだにいぼんは頑張ってくれている。
これは「勝負の三日間」が今になって効き始めたのか?と最後の希望のすがり付く気持ちで、病院へと駆け込んだが、答えは残酷だった。
帰宅後は数秒間にわたり呼吸が止まっては再び吹き返す── という状態が延々とつづき、にいぼんをこの上なく苦しめる。
そして、ついに・・・・19:54、にいぼんは逝ってしまった。
15年と9ヶ月という長い時間を俺の元で生きてくれた、最大の理解者であり最愛の息子であるにいぼんが、俺の元を去っていった。